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ドミトル (キエフ大公国) : ウィキペディア日本語版
ドミトル (キエフ大公国)
ドミトルドミートリー〔アレクサンドル・ダニロフ『ロシアの歴史(上)』p113〕あるいはドミトロ〔黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』P50〕ロシア語:Дмитр、ウクライナ語:Дмитро、? - ?)は、1240年のキエフの戦いにおいてキエフの防衛を担った軍事司令官(ヴォエヴォダ)である。
1215年、ハンガリーの王子カールマーン(アンドラーシュ2世の子。この当時ガーリチ公)を長とするハンガリー王国軍と、クラクフ公レシェク1世を長とするポーランド王国軍が、ガーリチに侵攻した。ドミトルはガーリチをめぐって彼らと対立していたダニールと共に防衛戦に参加した。
1240年、第2次モンゴルのルーシ侵攻の最中にダニールがキエフ大公となったが、ダニールは自身の本拠地であるガーリチにこもったまま動かず、キエフに派遣されたドミトルが軍事司令官となった〔田中陽兒『ロシア史 1』p145〕。9月から11月(もしくは12月)にかけて、キエフはモンゴル帝国軍の攻撃を受けた。ドミトルは市民と共にキエフを守備したが、モンゴル軍はキエフを落とすことに成功した。キエフ陥落の後、捕虜となったドミトルは、モンゴル軍の総司令官バトゥに次のような忠告を述べている。「この地に長く留まることなかれ。もし進軍をためらうならば、汝はこの地で組織だった抵抗を受けることになるだろう」。バトゥはこれを聞き、ルーシの地はいかなる場所かを悟ったという。
ドミトルの没年は不明であるが、バトゥに防衛戦での勇敢さを賞賛され、命を助けられた。
この1240年のキエフの陥落をもって、キエフ大公国は滅亡したとみなされている。
==脚注==
注釈
出典


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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